ゲッツ/ジルベルト
 (Sep.2003)

 
 9月3日発売の、ゲッツ/ジルベルトのCDの解説を書きました。このサイトを熱心に読んでくれている方にとっては、知っていることばかりかとは思いますが、“初めてボサノヴァを聞く人にわかりやすく”という依頼だったので、こんな内容にしました。このCDは、ジョアン来日記念ということで、ゲッツ/ジルベルト2の方のジョアン・サイドのトラックも追加されています。
 ところで、私は常々、女性への簡単なプレゼントはゲッツ/ジルベルトのCDが最適だと、力説しております。普通の女性は、ボサノヴァ・オムニバスCDとか小野リサさんのCDとかは持っていても、意外とこの大名盤は持っていません。一般的に、このCDをプレゼントされて、まず不快に感じる女性はいないし、あなたのことを“趣味が良い人なんだわ”と思うこと確実です。“いや〜、ちょっと知っている人がこのCDの解説書いてさ〜、5枚も買わされちゃったから、もし良ければ一枚あげるよ”なんて、会社のあの素敵な女子社員にプレゼントされてみてはいかがでしょうか? 次の日に、“あのCDすごく良かったです。○○さんって、ボサノヴァお詳しいんですか? もし良ければ、今日、お食事でもしながら色々教えて下さい。”と言われること、間違いなしです。
 あ、ちなみに、このCDを聞いていて、驚いたことは、“ソ・ダンソ・サンバ”のゲッツのソロが数秒、長いんですね。不思議に思って、担当の斎藤さんがうちに飲みに来た時に質問したら、96年にオリジナル・レコーディング・テープから、リマスタリングしなおしたので、それ以降の日本盤CDはチャンネルも左右が正しくなり、“ソ・ダンソ・サンバ”のソロも少し長くなったそうです。確認してみてはいかがでしょうか。このCDが売れると担当の斎藤さんも喜びます。 

●イパネマの娘、そしてジョアン・ジルベルト

 ボサノヴァで一番有名な曲といえば、もちろん“イパネマの娘”。その中でも世界で一番有名なヴァージョンといえば、今、あなたが手にしているCDの一曲目のことです。世界中でのラジオでのオン・エア回数もレコードの売上枚数も、そして恋人達の語らいのBGM率もこのヴァージョンが一番多いはずです。 1962年のブラジル、リオ・デ・ジャネイロ、イパネマ地区のバール“ヴェローゾ”で、詩人であり外交官でもあるヴィニシウス・ジ・モライスと作曲家のアントニオ・カルロス・ジョビンは、ビールやウイスキーを飲みながら、今、街で話題になっている綺麗な女性が通りすぎるのを眺め、この曲を思いつき、歌にしました。20世紀のポピュラー音楽の作曲家を代表するジョビンが作るメロディーが良いのはもちろんですが、ヴィニシウスの詩も恋愛の短編映画を思わせる美しさです。(ちなみにヴィニシウスは、あのガルシア・マルケスも小説の中で引用するほど中南米ではボサノヴァのというよりも、文学の詩人として有名です)この詩の男の子は目の前を通り過ぎる彼女の美しさに、もうまいっちゃってます。男の子はそんな彼女の美しさを様々な言葉で称賛します。男の子は多分、彼女に声なんか掛けられないタイプなんでしょう、彼女の美しさを感じれば感じるほど、自分の孤独さを知ります。
 そして、この曲を歌うジョアン・ジルベルトも、孤独で挫折だらけの人生でした。1950年にバイーアの田舎ジュアゼイロから希望を胸にリオにやって来た19才のジョアンは、有名なヴォーカル・グループに所属するものの成功はつかめず、プライドも夢も傷つけられ、1955年にリオを去ります。その後、友人の所を渡り歩き、結局はミナスのお姉さんの家にたどり着きます。お姉さんの家で、ジョアンは風呂場に閉じこもり一日中ギターを弾きつづけ、あのボサノヴァ・ギターのリズムを発明しました。1957年、ジョアンはボサノヴァのリズムを携えて、再びリオに向かいます。その頃リオでは湿っぽいサンバ・カンサォンや甘ったるいボレロが流行していて、それらの音楽に辟易していた中流階級の若者達は“僕らにぴったりの音楽はないだろうか”とちょうど試行錯誤していたところでした。そんな場所に、ジョアンが発明したボサノヴァのリズムは登場します。その後、瞬く間にボサノヴァは流行し、ジョアンは時の人となります。そう、もうジョアンは孤独ではありません。“イパネマの娘”を一人ぼっちで歌い始めても、友達のバナナがジョビンが奥様のアストラッドが、そしてゲッツが、彼の歌をそっとサポートします。ジョアンの舞台は、もうアメリカなんです。

●このアルバムのいくつかの秘密

 1962年11月、ルイス・ボンファやセルジオ・メンデス達も参加したカーネギー・ホールでのボサノヴァ・コンサートの大成功の後、ジョアンはヴァーヴにアルバムを一枚録音する契約にサインをします。そして翌年の1963年、3月18,19日の二日間に録音は行われました。レコーディングの二日目に、アストラッドが突然、ジョアンとゲッツに“イパネマの娘”を英語で歌わせて欲しいと言い張ります。おそらく、アストラッドはこのチャンスをずっと狙っていたのです。プロデューサーのクリード・テイラーも、そう悪くはないアイディアだと彼女が歌うのを認め、彼女の英語の歌が入った5分15秒という長いヴァージョンを録音します。その後、何故かこのアルバムはすぐには発表されず、しばらくの間クリード・テイラーの机の引出しで眠ることになります。
 さて、1963年の7月から10月までの間、ジョアンはピアニストのジョアン・ドナート達とイタリアへ演奏旅行に出ます。もちろん奥様のアストラッドも同行しますが、まだアルバムは発売されていないため、彼女にステージで歌う機会は与えられません。10月にドナート達はニュー・ヨークへ戻り、アストラッドはリオへ戻ることになりますが、ジョアンはヨーロッパに残ります。ここ数年間、毎日、長時間ギターを弾きつづけたジョアンは、筋肉膨張症という手の病気にかかっていました。ペレの担当医だった鍼療法医に治療を受けるべくパリへと旅立ったジョアンは、そこでミウーシャと出会うことになります。もちろん、ミウーシャは長年のアイドル、ジョアン・ジルベルトに恋してしまうのです。翌年、1964年2月、ミウーシャはジョアンに会うためにニュー・ヨークにやって来ます。二人は一緒に暮らし始めますが、まだアルバムは発売されておらず、お金に困ってしまいます。そこで、ジョアンは驚くべき行動をとっています。なんと、このアルバムの印税権をヴァーヴに売り渡そうと交渉したのです。もちろん、ヴァーヴはこの提案を無視したので、この後、ジョアンには莫大なお金が転がり込むわけですが...
 さて、1964年7月、ようやくこのアルバムは発売されることになりました。そこでプロデューサーのクリード・テイラーはちょっとした仕掛けをします。前述の5分15秒間の長いヴァージョンの“イパネマの娘”のジョアンのヴォーカル部分を切り捨て、アストラッドのヴォーカル部分が中心の3分55秒のヴァージョンを作り、シングルとして発表します。そして、そのアストラッドが歌う“イパネマの娘”のシングルは200万枚の大ヒットとなり、アルバムもチャートを上り、多くのグラミー賞を獲る事となります。
 翌年1965年の4月、ジョアンとミウーシャはめでたく結婚します。1965年、妊娠中のミウーシャと一時帰国したジョアンは故郷のバイーアで滞在し、そこでカエターノ・ヴェローゾやガル・コスタと出会って、彼らの前で歌っています。この出会いが後に美しいアルバムを生むきっかけになるのですが、それはまた別の話し... 翌年、1966年にミウーシャは出産しますが、もちろんその子供は、現在、歌手として活躍中のベベウ・ジルベルトです。

●参加ミュージシャンについて

 もう一人のこのアルバムの主人公スタン・ゲッツは1940年代から活躍するクール・ジャズのテナー・サックス奏者です。この時期、他のジャズ・ミュージシャン同様、彼もボサノヴァに夢中になり、このアルバムの他にもヴァーヴにいくつかの興味深いボサノヴァのアルバムを残しています。 ピアニストのアントニオ・カルロス・ジョビンは、もちろん本職は作曲家ですが、ギターを弾いたり時には魅力的なヴォーカルも聞かせてくれます。ヴァーヴ、CTIにはクラウス・オガーマンとの素敵なインスト・アルバムがあり、現在でも世界中のリゾート地の温度を5度くらい下げるのに活躍しています。 ドラマーのミルトン・バナナは、ブラジル国内ではかなりの有名ミュージシャンで、個人名義やミルトン・バナナ・トリオ名義のアルバムを多数発表しています。どれもが楽しく踊れるダンス・アルバムで、今でも世界中の素敵な女の子達の腰を振らせ続けています。
 ベースのトミー・ウイリアムスという人物ですが、この人はボサノヴァ・マニアの間では、セバスチャン・ネトの変名ということになっています。多くのこのアルバムのセッション風景の写真を見ても、やっぱりセバスチャン・ネトです。彼はボッサ・トレスという有名なピアノ・トリオ出身で、このアルバムの後は、セルジオ・メンデスのバンドに参加しています。最近はジャッキス・モレレンバウムもメンバーのジョビン・バンドに所属していますが、写真を見る限り相変わらず髭はそってないようです。
 アストラッド・ジルベルトは前述のように、このアルバムでデビューした後、ボサノヴァを代表する歌手となりました。ゲッツとはもちろん、ジョビンやワルター・ワンダレー達とヴァーヴに残したアルバムは、どのアルバムもハズレがなく、今でも、世界中のキュートで、でも声量があまりない女の子がヴォーカリストとなる時のお手本のスタイルとして重宝されています。
 ジョアン・ジルベルトです。彼は、このアルバムの成功の後、1964年9月にカーネギー・ホールでタンバ・トリオのエルシオ・ミリト達と録音した音源が“ゲッツ/ジルベルト2”として発表されました。このCDでも9曲目以降は、このアルバムからのボーナス・トラックです。彼はとにかく寡作なアーティストで、ライブ・アルバムを入れても僅か15枚ですが、どのアルバムもとにかく名盤、世界の文化遺産です。彼は飛行機が嫌いという噂で、今まで来日コンサートは実現しませんでした。しかし、飛行機にも慣れたのでしょうか、2003年、ボサノヴァの神様ジョアンは日本に上陸を果たします。

※「ボサノヴァの歴史」と「ブラジリアン・ミュージック」を参考にしました


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