ヴィニシウス・ジ・モライスがアントニオ・カルロス・ジョビンに二度手紙を出しているのはご存じでしょうか。一度目は1964年にドリヴァル・カイーミとのアルバムで、二度目は1974年にトッキーニョとのアルバムでジョビンに語りかけています。
さて、どうしてヴィニシウスが二度、こんなタイミングでジョビンに手紙を出したのか? ちょっと二人の経歴を振り返ってみましょう。時は1956年。後の仏映画「黒いオルフェ」の元となるミュージカル「オルフェウ・ダ・コンセイサォン」の制作で二人は出会いました。これの成功後、二人は多くの名曲を創作し、ボサノヴァ誕生の基礎を築きます。
1958年に二人の名曲群を最高の形で表現するジョアン・ジルベルトが登場することで二人の状況は一転しました。ジョビンはそれまではブラジルの一新進作曲家だったのが、ボサノヴァ誕生後は世界が注目する作曲家となったのです。
1960年代前半に渡米したジョビンは多くの名アルバムを発表し、ジョビンの音楽が世界を覆いつくします。
一方ヴィニシウスはブラジルにとどまり、よりブラジル色の濃い音楽世界を模索します。その後、ヴィニシウスはブラジルの軍事独裁政権から逃れるためフランスへ亡命しました。ちょうどこの時期にヴィニシウスは一回目の手紙をジョビンに書きます。ヴィニシウスはこの手紙を「決して送られない手紙」としてアルバムで朗読しました。ヴィニシウスはこんな風に語ります。「親愛なるトム、ここはホテルの部屋です。目の前には広場、目の前には世界の孤独すべてが……」
一方、1970年代以降のジョビンは少し状況が変化してしまいます。アメリカでのボサノヴァ・ムーブメントは終了し、ジョビンも以前のように簡単にはアルバム制作が出来なくなり始めたのです。そして、ブラジルで新曲を発表してもブラジルの聴衆からは「アメリカに魂を売った奴」としてブーイングを受けることになります。ヴィニシウスの二回目の手紙はちょうどこの時期にあたります。1950年代の二人の創作の思い出をサウダージいっぱいに歌います。
その後ジョビンは自分のペースの音楽活動に入り落ち着き始めた頃、1980年にヴィニシウスが亡くなりました。この「ジョビン、ヴィニシウスを歌う」はジョビンがヴィニシウスへの想いをたっぷりと込めた音楽です。そう、これは音楽という形をとった天国のヴィニシウスへの手紙なのです。
さて、男と男の手紙の話しはさらに続きます。舞台はブラジルのリオ・デ・ジャネイロを離れ、日本の東京へと移ります。イースト・ワークスの高見一樹がある日、何の説明もなくこの「ジョビン、ヴィニシウスを歌う」を中島ノブユキの自宅に郵送しました。2005年のことです。中島ノブユキはこのアルバムを聴いて、名作「エテパルマ」の構想が始まったそうです。男が男に何かを送り、それを受けて男がまた男に返す。美しい世界だと思いませんか?
※この原稿は某誌で書いた原稿なのですが、ちょっとした理由で別の内容のものになりました。でもせっかく書いたのでもったいなく思い、こちらにアップします。
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