EMI77〜81年の秘密(Jul.2003) 例えば、イヴァン・リンスが一番わかりやすいのですが、フォルマでデビューして→フィリップス→RCA→EMI→第2期フィリップスと移籍を重ねます。どの音楽が良いかというのはもちろん、個人の好みなので、こんな風に断言するのも変ですが、でも、初期からRCAまで、イヴァンは確実に音楽的実力を上げていきます。そして突然EMI77年の“ソモス・トドス〜”で一気に才能が爆発して、80年までの間、ブラジル音楽史上に輝くEMI4部作を制作します。その後、フィリップスへと移籍すると、なぜか突然ヘナヘナになってしまうんですよね。(イヴァンのフィリップス時代が好きな人ごめんなさい)何がイヴァンに起こったのでしょうか。アレンジャーのジルソン・ペランツェッタはRCAも第2期フィリップスでも参加しています。曲の印象もそれほど違った感じはしません。でも、なぜかEMI時代が完璧なんです。 あるいはジョイスですが、彼女も初期のフィリップス時代や70年代前半のオデオン、EMIの作品も、そう悪くはないです。でも、やっぱりちょっと未消化な部分が、どうしても感じられますよね。まあ、それがジョイス初期の魅力ではあるのですが...そして、やっぱり、ジョイスも80年にEMIで大傑作“フェミニーナ”を突然、発表します。今までの混沌した雰囲気は完全に吹き飛んでいます。そして、姉妹作とも言える、81年に“アグア・イ・ルース”というこれまた名作を生みます。その後、が好きな人もたくさんいるとは思うので、ちょっと言いづらいのですが、やっぱりあのジョイスも少しテンションが下がりますよね。 そう言えば、ジャヴァンも同様です。76年発表のファーストは、ジャヴァンがデビューまでの下積み時代に作ってきた多くの美しいメロディーがたくさん詰まった、奇跡的なアルバムではあります。そして、あの、ちょっとチープなサウンドが80年代のUKインディーズの手作り感覚に通じる印象があって、人気があるのも、すごく理解できます。私も、実際、ジャヴァンのファーストは大好きです。しかし、やっぱり、ソン・リヴリというマイナー・レーベルのせいか、多少、制作費不足と言った印象がありますよね...それを実感してしまうのはセカンドにあたる、2年後これまたEMIの78年盤があまりにも緻密なサウンドで、中途半端なインディーズ臭さはなく、私達の心を完全に打ちのめしてくれるからです。そして、ジャヴァンもまた、夢のEMI3部作と呼ばれる一連のアルバム群を81年までに残します。そして、82年にアメリカ進出アルバム“ルース”をCBSに移籍して発表します。もちろん、スティーヴィー・ワンダー参加の“サムライ”を始め名曲ぞろいですが、EMI時代のあのジャヴァンのピュアな印象が少なくなったと感じるのは私だけでしょうか。 他のアーティストにも、こういう例はたくさんあてはまります。例えば、パウリーニョ・ダ・ヴィオラは78年79年に立て続けに最高傑作をEMIで発表して、別のレーベルに移籍してから突然、失速します。ナナ・カイーミは常に名盤しか出さない人ですが、やはり79年にEMIに移籍してからは天国に近いアルバムを出します。もちろん、トニーニョ・オルタやロー・ボルジェスはこの時期、彼らの中でも一番最高の時期を迎えます。ちょっと地味ではありますが、スエーリ・コスタやファッチマ・ゲジスもこの時期、名盤を制作します。 サウンドの方は、もちろんですが、ジャケットもこの時期、EMIは色んなスタイルを世の中に問い掛けます。この時期、あのEMI独特の特殊ジャケが多いのも特徴的です。 この時期、EMIに何があったのでしょうか? こんな時、インターネット時代と言うのは便利なものです。先日、調べ物をしてたらこんな素晴らしいサイトに出会いました。1930年生まれの現在73才のヴィセンチ・メンデスさん(獅子座でカリオカだそうです)は、1955年から録音技師として、オデオン(EMIの前身)で働いていて、EMIの音楽の歴史とか、一時オデオンの社員だったジョビンの勤務態度の話やジョアン・ジルベルトの逸話だとか、そんな興味深い話をエッセイ風にまとめたサイトです。長文読解能力の無い私なりにも、なかなか楽しめるサイトなので、是非おすすめします。 そのサイトで、こんなおもしろい少女のエピソードがありました。このEMIの77〜81年までの謎を解くカギになりそうなのでここで紹介します。実際、70年代の半ばはEMIにとっても、音楽的に危機状態にありました。ボサノヴァブームは完全に終わってしまい、古い社員達は大衆サンバやアメリカン・ポップスを安易にコピーしたタイプの音楽を再生産するだけで、大きなヒット作も話題作も出ていませんでした。一方、ライバル会社のフィリップスはエリス、ナラ、カエターノ、ガル、シコ達を抱え、ガンガン、ヒット作を制作しています。そんな時代の76年のクリスマスの日、エステラと名乗る少女がEMIの扉をノックします。少女は、髪の毛はブルネットで腰まで伸ばし、少しウエーブがかかってます。顔は小さく、ブラジル人にしては異常なくらい色白で、そこに大きな緑色の目が印象的です。ブルーのワンピースを着て、ギターを一本抱えた彼女は入り口でこう言います。“私はエステラ、歌いに来たの”ここからがブラジル音楽界の不思議なところです。普通、そんな若者が来ると“アポをとってからもう一度来て下さい”とか、“オーディションを受けたい場合はこちらの住所にテープを送ってください”とか伝えて、返してしまいますよね。それが、彼女は入り口で歌い、社員がデスクで働いている場所で歌い、ドンドン中に入っていって、ついに社長の前で歌ってしまいます。その時にスタジオで、エステラの歌を聴いたヴィセンチさんも“今までに聞いたこと無い不思議な歌だった”と書いてあります。さて、さっそく、エステラと契約して録音しようと提案した、EMI側に対し、エステラは驚くような提案をします。“私、EMIで働きたいの、音楽が生まれる現場で一度、働いてみたかったの”EMI側は、他のライバル会社と契約されるのも心配なので、とりあえず、ということで彼女をEMI社員として雇うことにします。いずれは、彼女の歌を録音して発売するつもりだったのでは、とヴィセンチさんも推測しています。さて、EMIでスタッフとして働き出した彼女は、結局、EMIの制作スタイルを大きく改革することになります。実際、何か具体的なことは何もやってないのだが、と、ヴィセンチさんは語ります。どんな現場にも自由に出入りできたエステラは、いろんなスタッフに、こんな具合に話しかけます。“ねえ、このレコードを買った男の子は歌詞カードを見ながら、ステレオ装置の前で一緒に歌って涙を流すかしら?”とか、“ねえ、このジャケット、20年後にもし、ブラジル音楽が好きな外国人が見たときに、良いなあって、壁に飾ったりするかしら?”時には、スタジオにも入っていって、“ねえ、そのドラムの音ってどうしても必要?このギターのリフもどうしても必要?”最後は、アーティストの所に行って、“ねえ、この曲を今14才の女の子が聴いて、彼女が34才になった時、思い出して、ちょっと口ずさんだりするかしら?”なんてことも言い出します。こんなことを、EMIの中で自由に口にしても何もトラブルが無かったのは、彼女にそういう事を他人に許せさせる雰囲気があったのでしょう。最後は、何か問題があるとエステラのところにみんな相談しに行くようになります。そんな風にして、EMIは少しづつ変化していき、いろんなアーティストもEMIで契約したがり、ヒット作もたくさん制作されるようになります。そして、ヴィセンチさんも忘れもしない81年のクリスマス、エステラはみんなの前で、一曲歌って、そして、突然消えてしまいます。 やはり、彼女は音楽の女神だったのでしょうか? なんて、架空のサイトを想像してしまうほど、EMIのこの時期は名作が集中しているんですよね。
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