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中島ノブユキの平均率によるプレリュードとフーガ(Jan.2007)
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クラシックは好きですか?聞いたりしますか? 例えばあなたは昔ピアノを習っていたから、「ショパンやドビュッシーのピアノ曲は今でもCDでたまに聴く」かもしれません。 あるいは「俺はレゲエやヒップホップ、ジャズやテクノと同じようにクラシックも何の偏見もなく聴くよ」という素敵な人もいるかもです。 実は、私(著者:林)は大昔に短期間だけWAVEのクラシック売り場で働いたことがあります。そこで働く店員や集うお客様達が「坂本龍一の影響でクラシックを聴き始めた」と告白することが多くてびっくりしたことがあります。坂本龍一の影響でクラシックを聴く、これは皆さんが想像するよりももっともっと多い数のように思います。
さて、そんな風にして皆さんが耳にしているクラシック音楽、演奏家はアメリカ人や日本人、中国人も含め現代の人だったりするのに、作曲家は何故かほとんどが17世紀から19世紀のヨーロッパ人ですよね。 これって不思議じゃないですか?
しかし中島ノブユキが「平均律 24の調によるプレリュードとフーガ曲集」を作曲しています。そして2007年、日本の東京の渋谷BAR BOSSAにて2ヶ月に一回、計6回に分けて彼の「曲集」全48曲を演奏、発表します。 さて「平均律 24の調によるプレリュードとフーガ曲集」と言われても一体全体何のことだかわかりませんよね?
そこで、中島さん本人から「21世紀の今、24の調によるプレリュードとフーガ曲集を作曲する意味」を教えてもらってきました。中島さんのご自宅で色んな楽譜やCDを取り出してもらって2時間くらいの講義を受けたのですが、話はバッハの時代からシェーンベルクのやったこと、現代音楽の行き詰まりやヒップホップの話まで多岐にわたり、かなり刺激的で、そしてとても解かりやすい講義でした。私自身は楽譜も読めなく、楽器も弾けない、どうしようもない素人なのですが、「そうか平均律曲集を今作曲するってことはそんなに面白いことなんだ…」とおもいっきり納得してしまいました。柴田元幸の英語の授業を受けられる東大生が羨ましいように、中島ノブユキの音楽の授業が受けられる日芸生が羨ましくなりました。中島さん、1リスナー社会人のための音楽理論講座(酒付き、男女の出会い付きイヴェント)、是非やって下さい。
で、平均律とは?、です。 平均律とはバッハの時代に発明された音楽ツールです。難しいことは素っ飛ばすのですが、この平均律のおかげで「大きな転調」が可能になりました。平均律は音楽における技術革命だったのです。例えば、エレキギターが発明されたり、多重録音が発明されたり、シンセサイザーやサンプラーが発明されて、音楽表現の幅がぐっと広がったように、平均律の発明のおかげで作曲の幅がぐっと広がったわけなんです。
さて、当時の天才作曲家だったバッハはこの「平均律」というオモチャを手に入れて、とても喜び色んな作曲を試みます。サンプラーを手に入れた人が色んな音を使って遊びますよね。あの感覚で「こんな風に転調しても良いんだ」って感じで色んな作曲を試してみたわけなんです。で、そこからがバッハと普通の音楽家との違いになります。バッハは「じゃあこの平均律というツールを使って、全部の調を使って、プレリュードとフーガを作曲してみよう」と思いつくわけなんです。
さて「プレリュード、フーガって一体なんだ?」ですよね。 プレリュードは前奏曲と訳されます。ショパンとかドビュッシーも前奏曲をたくさん作曲していますよね。前奏曲は元々その後に続く曲があったらしいのですが、その後転じてちょっとしたスケッチ的な小品曲を「プレリュード(前奏曲)」と称するようになった形式だそうです。 フーガです。フーガは追われる者(或いは 、追われる物)という意味です。始めにあるメロディのテーマを提示して、違うパートがそのテーマを追いかける訳です。輪唱ってありますよね。「カエルの歌が聴こえてくるよ〜」ってやつです。あれと多少似ているのですが、決定的に違うのはそのテーマを追いかけるパートがそのテーマを展開した違うメロディになっていて、元のパートはそれに対応したメロディを展開していることです。そして全てのパートがテーマを追いかけ終わった後に、「遊び部分」が出てきて、その後、問題のおもいっきり転調した曲へと移行するわけです。そして曲は全てを抱え込み飲み込んで終わりへと向かいます。時間にするとほんの数分の曲なのですが、かなり形式にこだわった、だからこそ面白い「フーガ」なんです。
さてDX7を駆使した録音が現在は全然刺激的じゃないように、このバッハが生み出した「24の調によるプレリュードとフーガ曲集」というスタイルは過去200年以上、あまり刺激的じゃない、かなり古典的な作曲法になっています。例えば大学の作曲科で勉強する学生は「このフーガの形式で何か作曲する」という宿題を与えられるらしいのですが、なんだかとても退屈な行為のようなのです。
実際、時代が下ると「調性をあやふやにしようとする作曲」が行われ始めます。有名なのはドビュッシーの「牧神の午後」の冒頭のフルートのテーマだそうです。そんな風にして時代は確実に調の抑圧から解放される方向へと向かいます。ドビュッシー以降の作曲家は調性から開放され自分だけの音を目指す時代へと向かい始めたのです。現代音楽の始まりですね。
しかし中島さんは言います。「解き放たれた調は確実に制御される方向に戻ってきている」と。そんな時代に今、「調をコントロールするツールとして24の調による作曲をする」と。
そこで現在21世紀に日本でもう一度「24の調によるプレリュードとフーガ曲集」を作曲するわけです。
バッハが残した「曲集」というのは前述したように、全ての調での作曲とかプレリュードとフーガが一対になっていると言うこと、というような色んな制約があります。「制約がある」ということは、逆に「その制約を利用して色んな試みが出来る」ということになります。
そうそう、バッハの生誕250周年を記念してショスタコーヴィッチも「24の調によるプレリュードとフーガ曲集」を作曲しています。もちろん彼の「曲集」もバッハへのオマージュがあふれる内容になっているそうなのですが、彼ならではのアイディアもたくさん詰め込まれています。わかりやすいところでは、彼はテーマの中に民謡を取り込んでいるそうです。
そうなんです。中島さんは「まあ今はちょっとしたアイディアだけなんだけど…」と言いつつも「例えばこの曲はペンギンカフェ・オーケストラへのオマージュとかこの曲は安倍公房へのオマージュといった風に全48曲に色んな試みが出来るのもこの24の調によるプレリュードとフーガ曲集という制約、入れ物の特徴なんです」、とちょっと種明かしをしてくれました。
さて、もう一つ中島さんの面白い試みがあります。バッハやショスタコーヴィッチが作曲した「曲集」は主にピアノのみで演奏されているのですが、中島さんの場合は毎回色んな楽器で演奏してみようというアイディアです。例えば、ある時はギターのみで演奏したり、ある時は人の声のみで表現したり、ある時はチェンバロで、と言った具合です。
どうですか?面白いと思いませんか?
現在、21世紀初頭、全世界のいったいどこで「24の調によるプレリュードとフーガ曲集」の新曲発表会が行われているでしょう。とても刺激的な試みです。
なんて感じで、私がこうやって一人で盛り上がっていると、中島さん本人はこう言います。 「単純にフーガという形式のある種数学的パズル的しかもそこに情緒や何かしらの心の 投影そういった物が渾然と一体となっている様式を使って(あるいはその様式に僕自身 が使われ)と言うことに興味があると言うことに過ぎないんです」。 「本当に聴いてほしいところはたかだか2〜3ページの譜面、2〜4分くらいの曲、のなかに様々な表情が現れては消えるその移ろい。しかもその細やかな表情がある種堅牢な或いは構築された様式のなかに存在していると言うことが重要なのです」。
なるほど、「聴くべきものは音楽の美しさ、歴史的意義という物は後からついてくる」んですよね。
でも、私はやっぱり思うんです。この試みから色んなことが始まり出すのではと。
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