オスカル・カストロ・ネヴィスと
 エウミール・デオダート(Oct.2003)
 

 “ブラジルはジャケ買いするな、アレンジャー買いしろ”という有名な言葉があります。ホント、この言葉は真実ですよね。この歌手は良いから全部買おうと思って、そろえはじめると、片っ端から想像していた音じゃなかったということがよくあります。やっぱり、ブラジルのレコードは歌手名やレーベル、ジャケの雰囲気なんかじゃなく、アレンジャーが重要です。当ボサレコにも、“アレンジャー特集をやれ”というリクエストをよくいただくので、今回はボサノヴァ史に重要なオスカル・カストロ・ネヴィス(以下オスカルと略)と、エウミール・デオダート(以下デオダートと略)の仕事を見ながら色々と考えてみます。

 オスカルは1940年生まれで、デオダートは1942年生まれです。この2才の違いでオスカルはデオダートより4年早く、1960年にレコード・デビューします。フィリップスから発表された“ボサノヴァ・メズモ(日本語にすると“マジでボサノヴァ”でしょうか...)”です。これは、カルロス・リラやシルヴィア・テリス、ヴィニシウス・ジ・モライス達が参加したアルバムですが、いわゆる編集アルバムではありません。全ての曲のアレンジと演奏とディレクションをオスカルが担当しているので、これはオスカルのアルバムと言っても良いんじゃないかと思います。この時、20才ですね。その後1962年、オスカルはあの“ボサノヴァ・カーネギーホール”に参加します。そして同年、アメリカのオーディオ・フィデリティから初リーダーアルバム“ビッグ・バンド・ボサノヴァ”を発表します。個人的な話ですが、これ大昔に買ったのですが、今イチ、ピンと来なくて手放してしまいました。しかし、手元にあるボサレコ事典を見ると、ケペルさんが“内容は凄く良い”と書いています。今、かなり後悔してます。で、その後、オスカルはアメリカでしばらくジャズ・ミュージシャン達と演奏して、問題の1964年が来ます。

 1964年はボサノヴァにとっても、デオダートにとっても、大きな意味のある年です。デオダート爆発元年ですね。この年彼は、デオダート本人のリーダー作を4枚、マルコス・ヴァーリのファースト、ワンダ・サーのヴァガメンチ、ウイルソン・シモーナルのアルバム、メネスカルのファーストとエレンコ盤、チタのファーストなどなど多くのアルバムのアレンジを書いています。そしてこのまま、このテンションは65年にも続きます。多分、デオダート、休日なしです。22才です。自分の22才の頃を思い出すと、デオダート、信じられません。天才は違います。オスカルも負けてはいません。そう、この年は、ヴィニシウスとカイーミとクアルテート・エン・シーのズンズンの年ですね。あれはオスカル仕事です。パラマウント劇場でのライブでも多く出演して、アライージ・コスタが歌った“オンジ・エスタ・ヴォセ”が大ヒットしています。そして、あの名盤、アナ・ルシアの“カンタ・トリスチ”のアレンジも書いています。

 そんな風に二人のキャリアが進み始めて、1967年がやってきます。アメリカで活躍中のルイス・ボンファがデオダートの才能をかって、彼をアメリカに呼びます。ここからデオダートの次のステップが始まります。ルイス・ボンファのアルバムはもちろん、ジョビンのアルバム、アストラッドの“ビーチ・サンバ”、マリア・トレードのソロ・アルバム、イーディ・ゴーメのアルバムなどのアレンジを書きます。もちろん、どれもが現在でも古くならない大人気盤です。オスカルはどうでしょうか。この年の大きな仕事はやっぱりナラ・レオンのアルバムとクアルテート・エン・シーのアルバムですね。68年の仕事も入れるとオスカルはクアルテート・エン・シーのアルバムを5枚もアレンジを書いています。そして、忘れてはならない67年のエレンコ盤と言えば、ナナ・カイーミのファーストですね。これはもうオスカル以外は考えられないというくらいシンガーとアレンジャーの相性の良いアルバムになってます。68年です。デオダートはマルコス・ヴァーリのヴァーヴ盤の“サンバ68”で、オスカルはグラシーニャ・レポラーシのアルバムですよね。69年は、デオダートはCTIのミルトン・ナシメントです。オスカルは多分、69年にアメリカに渡ったのではと想像します。その頃からブラジル仕事がなくなるし、セルメンのアルバムに参加し始めるからです。ここがポイントですね。オスカルは62年のカーネギー・ホールに参加しているから、アメリカに行って、戻って来て、もう一度行くわけなんです。62年だとジョビンやジョアン、ルイス・ボンファのような大物には仕事があるんだけどオスカルにはあまりありません。そしてオスカルはセルメンのように意地でもアメリカで頑張るタイプでもありません。69年渡米だと、ちょっと遅れた感じがしますよね。行くタイミングがずれちゃったんですね。その点、デオダートはブラジルで経験を積んでから、絶妙のタイミングで渡米したわけです。

 さて、待ちに待った問題の1970年です。お気づきの方もいらっしゃると思いますが、この年はジョアンの久々のアルバム、“エン・メキシコ(スペイン語だからメヒコと発音するのはわかっているのですが、どうもメヒコというスペイン語の発音が好きになれなくてこう書いちゃいます。すいません。)”の年ですよね。このアルバムのアレンジャーとしてオスカルはジョアンにメキシコに呼ばれます。この時のことはジョアンの来日パンフレットに詳しくオスカルが語っていましたよね。オスカル、とても嬉しそうで、こっちまで嬉しくなっちゃいました。その後、76年にもう一度、オスカルはジョアンに呼ばれて、“ゲッツ・ジルベルト・アゲイン”に参加しています。一方70年のデオダートと言えば、もちろん、ジョビンのCTIの“タイド”と“ストーン・フラワー”です。どちらも名盤、文句なしです。ボサノヴァのアルバムで一番好きなのは“ストーン・フラワー”という人がいっぱいいます。さて、これは偶然なのでしょうか。1970年という音楽にとって重要な年にオスカルはジョアンのアルバム、デオダートはジョビンのアルバムのアレンジを担当しているなんて。

 この後、二人の音楽人生は違う方向に進みます。デオダートは72年にCTIから“ツァストラはかく語りき”を出して爆発ヒットします。このアルバムは今でも毎日、全世界で何枚も売れているはずです。デオダートのこの後はもうご存知でしょう。ロバータ・フラックやE、W&ザ・ファイヤー、クール・&ザ・ギャングなどなどにアレンジを書き、時々自分のアルバム(どれもがヒット)を出すという、大成功の道を歩みます。オスカルは地味です。71年からセルメン・バンドの正式メンバーになり、ポール・ウインターのバンドにも参加します。バイオグラフィを読むと、クインシー・ジョーンズやマイケル・ジャクソン、ミニー・リパートンなどのところで演奏はしているようです。

 しかし最近になってからはオスカルの方に運は向いてきます。何と言っても1992年、オスカルは“トゥーツ・シールマンスのブラジル・プロジェクト”という永遠の大名盤をプロデュースします。あのイヴァン・リンスやミルトン・ナシメント、カエターノ、ジャヴァン達が参加したアルバムです。これはやっぱりオスカルならではの仕事ですよね。オスカルの初仕事、1960年の“ボサノヴァ・メズモ”とどこか似ているアルバムです。いろんな個性を一つの色にまとめて自分の色は出しすぎない。オスカル、素敵です。この後、オスカルはケニー・ランキンのボサノヴァ名盤やジョー・ヘンダーソンの“ダブル&レインボウ”、イリアーニ・イリアスの“シングス・ジョビン”なんかのプロデュースをします。どれもが良い仕事です。そして、最近のオスカルと言えばヨー・ヨー・マのピアソラ・アルバムですよね。同じ企画でヨー・ヨー・マのブラジル・アルバムも作りました。一方、最近のデオダートと言えば、やっぱり思い出すのがクレモンティーヌでしょうか。大ヒットしたのでみなさんも覚えているかと思います。さすがデオダートって感じの仕事でしたよね。日本中がやられちゃいました。

 ところで、この二人は最近、みなさんもよく知っている人をプロデュースしています。はい、小野リサさんです。オスカルは“ドリーム”で、デオダートは“プリティ・ワールド”です。うーん、わかりやすいですよね。二人の仕事の特徴がはっきりと現れています。みなさんはどちらがお好きですか?“ドリーム”と“プリティ・ワールド”。


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